〜1999年 前史 慶応義塾大学、私立探偵、金融屋時代
落ちぶれたエリート設定。20社以上の勤務経験。

1991年〜1996年 慶応義塾大学
中等部、塾高、大学と慶応義塾であった。
1991年4月 慶應義塾大学法学部政治学科入学
体育会射撃部部長
大学3、4、5年次 文化団体連盟(中道右派系学生自治会)の委員長を勤める。
詳細は慶応ジャーナル(http://web.archive.org/web/20090315090317/http://www.keio-j.com/old/interview/43kirikomi1.html)に掲載されている。
「法政大学とか明治大学とか、変わった所でいうと国士館とか」の「職業学生活動家」、「革マル」などを排除との記述在り。
ただし、1993年当時慶応義塾大学で学生運動が行われていた形跡は見られず、負けず嫌いの彼の性格上2ちゃんねる共同管理人時代の革マルからの抗議に対抗する意味を込めて、記憶を再構築、拡大解釈した可能性が高いと考えられる。
一年留年「シーズンスポーツ落としたという泣かせる事情があって」
大の朝日新聞嫌いである。
成績は優が2個のみであった。(ソース不明)
 「株式投資を始めたのは1993年、慶応大学法学部2年生の時でした。きっかけは父の借金です。」(週刊ポスト 2003年3月12日号)
「中学高校とパソコンをやってて。 海外の経済ニュースとか株価とかも好きだったんですよ。 僕、経済に興味持ったのが比較的早かったんで。 で、「こりゃおもしれえや」ってパソコン使って、値動きのグラフを作ったりとか。 あと当時、野村がファミコントレードってのを作ってたんで、 株価見るためだけに親父騙して買ってきたりとかね。」(慶応ジャーナル)
野村證券と任天堂がファミコントレードを販売したのは1988年7月、山本一郎が高校1年生のときであった。株式投資するまで5年以上も潜在期間が在ったとするのは、若干不自然である。
(純粋に投資活動に集中していた時期)「’92年くらいから’00年までかな」(週刊SPA!2003/4/8号)
1995年国際電気(現日立国際電気)に内定するも、留年。再び就職活動をして1996年に入社することになる。
1996年3月 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
(10億弱の父親の借金を背負ってることについて)
「慶應大学時代に、俺と同じ境遇にいた奴も、十何人かいた。二人ほど自殺したらしい。もう一人は破滅寸前だ。」http://mimizun.com/log/2ch/venture/989499532/701
「俺と同じ境遇にいた奴」の人数が多すぎる。悲劇の主人公を気取るための過剰なフィクションであったと思われる。
「慶応大三年在学中に大きな転機が訪れた。バブル崩壊後、地価下落が最大の原因となって父の会社は過剰債務にあえぎ、個人でも十数億円の借金を負った。」(産経新聞 2003年11月30日朝刊)


1996年 国際電気、東京RIM調査
国際電気社員紹介 http://livedoor.blogimg.jp/brow2ing/imgs/6/d/6d25e800.gif
入社後わずか半年の1996年9月に、退職することになる。退職理由は同僚の不正追求、その結果自殺が発生したことによるものとなっている。
「 大企業に勤めていた時、俺が不正を見つけ、追求した対象に自殺された事があります。しかも、公衆の面前で。東京FORTで酒を飲んでいる時に携帯電話で通報され
ましたが。死にたければ死ねばいいのであって、それは決定的に個人の自由であると思いますよ。ただし、それによって迷惑を被る人間がいるのです。死なれたら、
どのような制度の下においても遺産相続放棄しない限り債務を親族に対して追求していかなければならないではないか。こうなりゃドライに割り切るしかない。」
http://mimizun.com/log/2ch/venture/989499532/701

1996年当時。研修期間中の新人が社内の不正を追い込むような重責を背負うことはほぼ不可能であった。不正追求とのことから、私立探偵時代の偽装経歴ではないかと見られる。
「国際電気と同業メーカに居た者だけど、この当時は1年から半年が新入社員の研修期間で、生産管理から倉庫まで3ヶ月単位で回される時期。
会社とすれば「お客さん」であり、研修たって「会社はこんなことやってます」って紹介なんだよ。で、大概この時期に脱落する奴がいる。
俺の同期だと、大卒90人中3人、高卒100人中4人。事情はいろいろなんだろうけど、まず遅刻する。
これが兆候。そのうちに、出社しなくなる。これでガチ。親に電話すると、「もう辞めたいって…」」
「普通に馴染めず朝起きれなくなってそのまま退職しただけだろw それでも、入社したての新人が社内の不正を追い込むような重責背負って同僚自殺なんてフカシはヤリ過ぎだ」
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/market/1324944994/597−598

また、サラリーマンに対する嫌悪の情が見られる。
「すまん、俺、雇われている状態に疑問も不満も抱かず安穏と生活している連中が大嫌いなんだ。かかとの磨り減っていない靴を履いて半分眠りこけながら夕刊フジを
満員電車に乗ってる中年リーマンを見ると心から軽蔑したくなる。」http://mimizun.com/log/2ch/venture/996541043/80

大学時代の先輩から調査の仕事をしないかとの誘いを受けて東京RIM調査に就職した。コンピュータの知識に目をつけられての依頼だった。東京RIM調査は調査員4〜5人の法人向け専門の調査会社であったと見られるが、現在は存続していない。
そこで企業調査のノウハウを学ぶことになった。http://web.archive.org/web/20051220175231/http://giraud.way-nifty.com/lune/files/up34435.jpg

1996年借金は返済された。
「一生かかっても返せないと思っていた借金を3年ほどで返すことができた」(週刊ポスト 2003年3月12日号)
「ほぼ三年間で父の負債を完済、問題を解決した。」(産経新聞 2003年11月30日朝刊)
「大卒一年目で借金問題が解決」「株式や各種金融商品への投資、ベンチャーへの出資などで、十数億円とも言われた債務を4年程度で解消」「大学生で借金13億円を抱え込むも、株式投資によって4年で返済」(週刊SPA!2003/4/8号)
1997年私立探偵として独立したあとに「苦労して内偵して数百万しか貰えない稼業」との発言があり、矛盾している。
また、1993年当時購入したとの発言があるのDell株は2000年のピーク時でも20倍程度しかなっておらず、借金返済は不可能であった。
http://www.geocities.jp/kirikomi1973/Dell/index.html
このことから、借金問題は私立探偵用の偽装経歴であったと見られる。(時期的には1996年12月入社のフリーウェイから使い始めた可能性がある。)
また、家庭環境に関しては以下の様に発言している。
「トヨタ・マーク2をやめて、日産グロリアに買い換えた家庭に育った。」http://web.archive.org/web/20060116090337/http://www.din.or.jp/~norihide/doc/kirik/shitai.html
ただし、父親の借金に関しては、
「俺の父親は、要するにバブル時代にバブルで踊ったクチであり、いわば「歩く不良債権」であった。
その家業衰亡の張本人である父親が、こともあろうに伸び盛りのパソコン事業者の名前が出るなんて世の中も進んできたなと思ったら、さにあらず。」
「八重洲のF社だっけ、彼の一族が経営してるの。あの一帯では昔からある会社だね。彼がアメリカで株や不動産で懸命に稼いでいたのを、親が中国での事業に全部使って
しまうので業を煮やして、借金がある程度減ったのを期に独立したようだ。親は親であちこちにご落胤がいて最後に結婚した女房に離婚歴を隠していたそうだし。かなり複雑そう。」(本人否定せずhttp://mimizun.com/log/2ch/venture/989499532/760
との記述もあり、バブル時代に山本家の資産を食い潰した可能性はある。
「凄い経歴」では、優れた出自と共に借金返済の時期が2000年となっており、前記発言との矛盾が目立つ。
「中央区八重洲界隈の地主として現在に至る。」
「父**は*士*学*業(同族企業)を経営する他、三菱の流れを汲む四社の代表取締役を勤める。(1990)」
「父**、不動産管理業の失敗が理由で全ての保証人を山本*郎に移す。主な債権者は日*興*銀行、*谷*用*庫(1996)」
「   米国株売却益により*士*学*業等同族企業の債務の過半を返済(2000)」


1997年 私立探偵
1997年2月から私立探偵として独立した事務所(事務所名不明)を開設した。http://web.archive.org/web/20051220175231/http://giraud.way-nifty.com/lune/files/up34435.jpg
「俺たちのビジネスはしがなかった。中堅以下の法人向けの、調査会社。俗に言う、電波屋だった。」http://web.archive.org/web/20050507233953/http://www.din.or.jp/~norihide/doc/kirik/letters.html
そこで先輩と一緒に、ガンガン働くことになった。
1997年12月時点までで、合計18社の依頼をこなした。1件につき3週間ぐらいで調査は終わるという。
「ウィンドウズ95がひとつのブームになった頃は、まだ日本でハッカーという言葉も定着しておらず、もともとはそちらで飯を食いたかった俺たちに
とって、コンピュータ系調査会社というのはまだ面白みがなかった。」
「いつしか、先輩は自分で作った調査会社より、急成長を遂げるパソコンの事業へ魅力を感じるようになっていった。証券会社や経営者に雇われて会社
に入り込み、苦労して内偵して数百万しか貰えない稼業より、華々しい飾りつけと明るい店舗に目を輝かせた客を呼び込み、わずか一日で二千万以上の
売上をワンフロアで叩き出すビジネスを想像して、身震いしていたのである。」
「俺とて羨ましい気持ちはないではなかったが、うまく中堅の調査会社からの受注も取れ、自社が契約する私立探偵も増えてきていた時期だっただけに、
何とか事業として自立できるところまで伸ばしたいと思っていたのである。」

そして、先輩が調査会社を離脱することになる。
「転機は突然やってきた。先輩が嫌ににこやかにオフィスに来たかと思うと、一通の契約書を俺に投げて寄越した。来月付けで、会社をあの
社長に売却することで合意した、というのである。」


1998年 パソコン部品の輸入会社、五橋研究所
1998年1月に私立探偵事務所は名前だけ残して委譲することになった。
「複数の調査員が、依頼された会社の中で社員のフリをして仕事をしている。内偵している最中に突然会社が変わりましたでは良いことが起きようはずもなかった。」
「やむなく、会社の器は残して、その経営はかねてから取引のあった中堅の調査会社に委譲することで話をつけた。それ以上のことが俺にはできないと
いう悔しさはあったが、これを機会に俺の父親の商売を継ごうと決断した。」
パソコン部品の輸入会社を設立、そこで8ヶ月の間勤務することになった。合弁先の会社名は不明である。
「いつの間にか、パソコン部品の輸入会社を、社長とウチの家業の合弁にて設立する話になっており、見事に俺は巻き込まれた。」
「俺は最後まで、この会社の社員ではなかった。八ヶ月もの間、合弁企業の設立準備目的の出向扱いだった。」

1998年8月にはLinuxを取り扱っている五橋研究所に入社した。
「俺はパソコンの商売がらみでリナックスのパッケージ会社にしばらく出入した」
このころ、お気に入りの「ピエール」がNifty上で作られた。http://web.archive.org/web/20060212110838/http://www.din.or.jp/~norihide/doc/kirik/kuso.html
コンサルタント会社に勤務することになった。
「パソコン市場での経験を買われてコンサルタント会社に転職して、プロジェクトが一段落した後に」


INDEX /BACK/NEXT

inserted by FC2 system